moriさんのブログ

エフェクター

最初に仕事で使ったエフェクターは、ローランドコーラスアンサンブルCE1。次に同じくローランドスペースエコーRE301。ギター用エフェクターも各種、例えばモーレーのファズやディストーションなども持ち込んだがSNが悪くあまり歓迎されなかった。クライベビーは最後まで標準装備だったが、これはスキあらば、ギターの音をミック ロンソン化しようとの想いがあったからである。ワウをあるポイントで固定すると、なんとなくミックロンソン的な音になり、その後のシンセダビングが楽しくなるのだ。残念だがこれも却下される事が多かった。

ここ数年来、シンセはコンソール直ツナギで録っているが、95年くらいまではエフェクターを持ち込んでいる。最初にラックにマウントしたのはMXRピッチトランスポーザーと同30バンドグラフィックイコライザー。イコライザーは補整に使うのではない。端から順番に最大、最小と交互に設定してコームフィルターとして使う。思えばこの2台は最後までラックにあった。キング クリムゾンの来日時には、ロバート フィリップからPトランスポーザーを貸してくれと頼まれ(ナンテね)、ラックから抜いて提供した。当然愛着があり、外せるわけがない。

最終的には、12Uのラックが二つ。なんといっても自慢のエフェクターはE.E.W.特製のものだ。2種類のエキサイター、特製ノイズゲート、レスリーシュミレーター。エキサイターの2種類はハーモニックとフェイズ、前者はシンセブラスに抜群の効果があり、この音欲しさのアレンジャーもいたほどだ。レスリーは完璧に近いシュミレーションだったが、希望で超高速モードも加えてもらった。ゲートに関しては、勿論ゲートエコーをやるためだったが、スレッショルドを緩めに設定して、わざと音をチョチョ切る使い方も面白い。

E.E.Wとは永塚さんのワークショップである。永塚さんは富田勲さんのスタジオなどで、機材を作ったりメンテナンスをしたりする傍ら、依頼があると新しいものやフシギなものを自分で設計して組み立てる、つまり技術系エンジニアの人だ。試作するたびにユーザーと問題点改良点を話し合い、お互いが完璧に納得するまで絶対に妥協しない。このスタイルは常に一貫していた。僕は(何を依頼した時かは忘れてしまったが )横浜にほど近い永塚さんの自宅兼工房をたびたび訪ねたことがあった。お邪魔するたびにたいへん歓待されたうえ、夕食までご馳走になって随分恐縮した。音楽や楽器談義のあとは決まって映画鑑賞に突入する。永塚さんはマイナー系名画のコレクターでもあった。僕が見せられた作品も、主人公が何故か洗濯屋だったりする。しかもカメラアングルがかなり独特なものなので否応なく凝視せざるを得ないのである。惜しむらくは、コレクションの多くが数回のダビングを経たものだと思われ、若干画像に不鮮明さが確認されたが、ある意味そのことが アールヌーボォーである と同時に映画の価値を高めるのに貢献している、とも思われた。

森本レオさん

レオOBのひとり、グーフィー森。彼は短期アルバイトとしてレオで働いた。音楽好きなのはわかったがナニ目指してんだかまるで解らない不思議な人だった。その後の活躍を見た時、やっぱり人が及びもしない事を考える人だったんだと得心した。過日、彼にばったり会った時、元レオにいた森だから[ 森 もと レオ] というギャグをアミダした話をした。すると彼は随分真剣な顔をして「自分にもそのギャグ使わしてくれ」と懇願するので許可してあげた。その直後、本物の森本レオさんと音響ハウスのエレベーターに乗り合わせたが、…ガマンした。

ライヴ仕事 1)TBS東京音楽祭。エントリーあるいはゲストで出演するアーティストのため数年間プログラミングした。ノーランズにはプロ5を使ったが、キーボードプレーヤーが音を気に入ってくれ、そのままツアーに持って行った。彼は一番末っ子のコリン(だっけ?)といつもイチャついていた。(別にイイけど)。スイングアウト シスターのプロデューサーと同名だった気がしたが、同一人物であるかは不明。スティービーワンダーの時は勿論プログラミング不要。セッティングだけ手伝った。2)ランディ クロフォード公演ではOBXとプロ5を使った。

会場は青山草月ホールだったと思う。プログラミングが細部まで行き届かず若干悔いが残ってしまったので、なんだか祈るような気持ちで演奏を聴いた。そのためか演奏された曲もストリートライフなど数曲憶えている。シンセの音はともかく、いいライヴだった事は確かだ。3)ピエールポルトのオーケストラにもOBXを持っていった。キーボードプレーヤーが結構なオバサマだったが、やけにジノ バネリィ〜と連呼していた。しっかりコピーしたら喜んでくれて、ハイライトを1カートンプレゼントしてくれた。

4)僕はオーバーハイムの当時の輸入元からリペアに関する講習(応急処置ぐらいのレベルだが)を受け、修理出張にも出向くことがあった。大阪サンケイホールにはジョージ紫さんのOBXを診に行ったが、すぐに「自分には修理不可」がわかったので、1ボイスキャンセルして7ボイスで使ってもらった。アラベスクのOBXもツアー先の福岡でトラブった。すぐ来いと言われ、この時はスペアのOBXを手荷物扱いで一応持って行った。この時も「自分には修理不能」がすぐわかったので、2ボイスキャンセルして6ボイスで使ってもらったが、これは内緒だった。

ライヴつながり、『ユイ』のイベントが後楽園球場であった時の話だ。突然の集中豪雨でコンサートは中止になってしまったが、どれぐらい凄い雨だったかというと、なんと腰の高さまで水位が上昇したのである(本当だ)。当然ステージサイドにスタンバっていた楽器はほとんど水没の有り様、印象的な光景だった。僕はTシャツの重ね着で寒さを凌ぎつつ呆然と水の中で佇んでいた。ふと、ナニゲに目をやった先に、なにやら波間にプカプカ漂いながら水道橋方面へ流されていく黒い箱のようなモノを確認した。

目の錯覚かと思ったが、やっぱりマーシャルのスピーカーキャビネットに間違いはなかった。僕はマーシャルの悲痛な(そして少しディストーション気味の)声を確かに聞いた。(ダズゲデ!)。これは子供だろうがマーシャルだろうが人間として見過ごせない…。楽器の搬入搬出、方法は幾らもある。ちなみに当時の我々は、ギョーカイにおいて『引き上げのレオ』と呼ばれていた。(入りは遅刻するくせにバラシは早えェの意味)。しかしながらクロール泳法でマーシャルを回収した経験を持つ人間が、いったい世界に何人いるだろう。なんだか誇らしい。

80年代初めオーディオにハマった。と言っても高価なアンプを買いあさるとかではなく、如何に金をかけずして音を良くするかを命題にした。ハマったきっかけは『テラーク盤』だった。レコードの帯に 「キミのプレーヤーはこの音を再生できるか!」みたいなコピーが書かれてあったので、おもわずその「1812」を買ってみたのだ。毎回大砲のところで針が飛んでアタマにキタ。針圧を変えるなどでは芸がなさ過ぎるので一番安価なヘッドシェルを変えることにした。それを皮切りにドブ板だのブロックだのゴムだの、プレクリンだの…。

日本テレビ音楽院

〇月〇日日本テレビ音楽院 わかり易いシンセサイザーとその操作方法を教えてくれる人間も一緒にとのオファー。ジュピター4を持っていった。指定の時刻より少し早めにスタンバイ。待つこと数十分、なんとアノ松平健さんがお一人で登場。まさかスタジオを間違えたかと焦り気味の僕を後目に健さん、「宜しくね」と笑顔。歌謡ショーで健さんがシンセサイザーをイジクってオバサマたちを驚かせるという嗜好。できるだけ派手でスゴい音を数種類所望され、更に二時間ほど操作方法等レクチャー。稀少な経験だが果たして本番がどうだったか…

シーケンシャルサーキット社のシンセは、常にプログラマー時代の僕のメインマシンだった。プログラマーという職種がギョーカイに定着するきっかけになったシンセだし、ほとんどのプログラマー諸氏にとっても『一家に一台』的シンセサイザーだったに違いない。プロフェット5に関しての記憶ではバージョンが4あるいは5種あった様に思う。レオにきたプロ5はバージョン2からだ。バージョン1はひょっとしてプロトタイプだったかもしれないが、オートチューニング機能が無かった。(これはジャコ パストリアスのリハーサルの時、見て確認した)

バージョン2は後の3と比べてピッチなどの安定感に欠けたが、個人的には音はこっちが好きだ。(最初の印象が強烈だったからか?)4はMIDI装備、5は120メモリーになりこの二つは音が明らかに違っていた。レオには5〜6台プロ5があり、僕はプログラマー仕事用にバージョン3にMIDIをくっ付けて確保していたが、リースの需要が多い時は供出しなくてはならず、その場合音も初期化してしまうので、プロフェット10やT8に比重を移していった。プロ10はトーキングヘッズのジャパンツアーに一度出しただけだし、T8は僕が仕事で使っただけだった。

オーバーハイムの4ボイス。松武さんは8ボイス仕様で大活躍だったが、レオのはその半分の4ボイスであり、それを使った僕の仕事はそのまた半分もなかった。シンセに悪いことをした…。少し言い訳がましくなるが、1980〜1981年この時点でもまだ、会社も僕もプログラマー仕事に本腰ではなかったのだから稼動しないシンセがあるのも無理はないのだ。しかもこのシンセは持ちにくいしケースも重い。一人で運ぶには難儀である。短命で終わった理由はその辺りにもある。イジリ甲斐がありハイパスフィルターが特徴的なシンセだった。

シモンズはポラードのシンドラにとって替わる需要があった。パットを叩くことも勿論あったが、シンセダビング時に、生ドラムからトリガーすることが多かった。かぶりや強弱にバラツキがあるときは、ゲートとコンプレッサーでシェィプして対応した。残念なことに80年代の初めに氾濫しすぎた音なので古めかしく思われ、現在は敬遠されている節がある。僕はバージョン1 2 3挙句SDXまで追っかけたほどのフリークだったから、古い!などのネガティブ発言には反応してしまう。シモンズをオケヒットと同じに考えてもらったら困る!のである。

リンドラム1、内部発信のクリックを聴きながらリアルタイム入力でデータを作る。基本的に2小節1単位で作ったそのデータを譜面を追いながらつなぎ合わせて完成させる。タイムベースは48。MC4と同じパルスカウント信号で同期する。まぁ普通ドラムマシンはこんなものだし、それほど難しくはない。だが当時の僕はこの仕事がイヤで堪らなかった。仕事前夜は憂鬱で寝つきも悪く、病気になりそうだった。当時の医者はこの病気を『リン病』と言った(ハズはない)。 何故なら僕は譜面が読めないからである。

別に開き直るつもりはないが、事実だし悪びれる必要もないと考え、アレンジャーにお願いして譜面の番地書き込みとデータ入力をやってもらった。まぁ今思えば昔のハナシとはいえ汗顔モノ、ではある。勿論いつまでもアレンジャーにお願いする訳にはいかない。例によってトイレに貼り出して学習した。するとやっぱり効果テキメン、いつの間にか譜面を追えるくらいにはなっていた。リンドラムのリアルタイム入力はレオの仲間からレクチャーを受けて、これもなんとかクリアした。自分のリズム感があんがいイイことが判明、驚いた。

1980年

レオに戻ったのは確か80年。リース部のチーフに「これでレオのシンセも安泰だな」と言われた時は根が案外真面目なので焦ってしまった。「RMCでシンセ勉強してきました」の手前、知らない解からないとは言えない。でも実はたいしたことナイ僕は、しばらくはなんだかコソコソする面持ちで、通常業務の合間にミニムーグやオデッセイでオペレーター仕事もやっていた。結局RMCが存在する以上、レオにおける基本的な僕の役割といえば、リースで出すシンセサイザーが正常な状態であるかどうかをチェックする、ほとんどそれだけに過ぎなかった。

モーリSTでのベンチャーズのレコーディングにオデッセイを持っていった。僕がスタジオ入りした時には、すでにメンバーが三人ほどコントロールルームで談笑していた。ガタイの大きさに一瞬たじろいたが、それよりどんな音を要求されるのかが不安だった。だいたい技術や経験が明らかに足りない男が、ミナサンコンニチワと参上したわけで、考えてみると相当無謀である。固唾を呑みながら待つ僕に発せられた言葉は一言、「ロコモゥーティウ゛」。蒸気機関車が走り出してトップスピードに達するまでの音だ。まぁラッキーというかなんというか

これはかつて自習でトライしていた音だった。なんだか自分は結構強運かもしれない、そう思った。それにしてもスタジオ仕事でオデッセイにお呼びが掛かる場合は、SEで使われることが多かった気がする。個人的には、例えばスティーブ ヒレッジのアルバム『グリーン』で聴かれるリード音やS&H高速シーケンスみたいに、普通に楽器(キーボード)として使う方が好きなんだが。モノフォニックシンセサイザーでミニムーグと人気を二分しながら、総合評価でなんとなくいま一歩のオデッセイ。近頃では誰も口にしなくなった。寂しい…。

ミニムーグ、アープオデッセイ、アーププロソリスト、アープアキシー、コルグ800DV、ミニコルグ、ヤマハCS80、ローランドSHシリーズ、ゼンハイザーボコーダー、大体こんなラインナップだった、80年までのレオのシンセサイザーだが、考えてみるとムーグ登場からこの時期までの10年以上、やけに静かなシーンだったものだ。一方80年代半ばまでの5年間、これはなんというか凄まじい軍雄割拠の時代だ。僕がレオを辞める84年までには、レオに無いシンセはフェアライトとシンクラビアくらいと言ってもいいくらいに増えていた。

シモンズドラム、プロフェット5、オーバーハイム4ボイス、コルグモノポリ、ポリ6、PS3200、ローランドジュピター4、ジュノ、TR808、リン1、イミュレータ1 、そしてMC4、これが1981年くらいまでに、そして1984年までにはプロフェット10、T8、オーバーハイムOBX、OBXa、PPG2.3、イミュレータ㈼、シモンズ2、3、360システムズ、カーツェルK250、ローランドJP8が出揃っていた。(たぶん記憶漏れ在り)。イッキである。とてもじゃないがトイレに貼り出すだけで覚えられる量ではない。しょうがないので風呂場や天井にも貼り出した。

チョーサンは楽器に該博であるだけでなく、新製品を購入する決断もとにかく早い。記憶が不確かだが、少なくとも僕のプログラマー仕事が軌道に乗りだす82年くらいまでは、僕が進言あるいはオネダリなどする以前に、チョーサンの決裁でいつの間にか新しいシンセがレオにある、そんな状態だった。RMCがいつ解散したのかも憶えていないが、そのRMC解散後のスタジオ需要をレオでリカバーする思惑があったのかもしれない。何れにしてもチョーサンからの明確な指示はなく、暗黙の了解のもとひとつずつ触りながら覚えていくしかないのであった。

ローランドのJP4、作った音をプリセットできる点で画期的だった。しかもポリフォニックだ。この楽器を思い出すとき、亡くなった木田高介さんを同時に思い出してしまう。木田さんはJP4がお気に入りだった。レコーディングでオファーがあると大抵木田さんの仕事だったくらいだ。(なんとなく新宿のテイクワンSTが多かった記憶がある。)いつも、楽器のみオペレーターなしのオファーだったが、ある時どういう訳か僕が音を作ることになり、それをきっかけに会うたびに声をかけてもらえるようになっていた。

それだけに突然の訃報を聞いた時はショックだった。………木田さんの話のあとで少し気がヒケルが、JP4には番外編ともいえる思い出の仕事がある。

1978年その3

RMC はレオMからキーボード、シンセサイザー類を切り離して、スタジオへのリースを強化するために作られた会社、というよりチームだった。事務所は西麻布にあった。リーダーは浦田(恵司=現EMU)さん、他に寺島さん、長浜さん、よのすけさんの四人。それに最年少の僕が加わった。1978〜80年、この頃は松武さん(MAC) 杉原さん(JAN)そしてRMCの面々がシンセサイザーオペレーターとして仕事をしていたと思う。ただ後に確立されたプログラマーの仕事とは少し趣きが違う。オファーも、例えば『ミニムーグ オペレーター付』、この様に受ける。

まず楽器に指定があり、それにシンセが解る人間(オペレーター)が付いていく形だ。シンセサイザーのダビング時間は、二時間一セッションで区切られており、時間内で終わる限りはプログラマー人件費を計上しなかった、と思う。これはあくまでも僕の知る限りだが。具体的に説明すると、『二時間までなら何度でも〓あと延長の場合一時間毎に〇円頂きます』こうなる。

勿論、松武さん浦田さんはスタジオへのリースから離れたところでシンセサイザーを使った活動はしていた(と思われる)ので、我が国二大プログラマーの下地はすでにあったということだ。RMCにはムーグⅢ(タンス)、EMS(穴ポコにピンを差し込むヤツ)、アープ2600などもあったが、実情リースで稼働していた楽器はミニムーグ オデッセイ オーバーハイム2ボイス メロトロンポラード社のシンセドラム(通称シンドラ)あとはソリーナストリングス ホナークラビネットD6 フェンダーローズ(エレクトリック ピアノ)などだ。

楽器車が一台しか無いので、スタジオ入りに遅れないよう、常に先のりで楽器を搬入していた。オペレーターは後からチューニングメーターだけ持ってスタジオに行けばいい、というわけだ。シンセはほとんど1台だけ、エフェクターも持っていかない時代である。このやり方は僕にとってメリットもあればデメリットもあり、良い点は、楽器が重複しない限り午前中にすべて搬入してしまえば、夕方ピックアップに回るまでかなりまとまった時間が持てること。残念だったのは、浦田さんたちの現場での仕事をただの一度も観られなかったことだ。

空き時間には大抵メンバーの誰かがシンセを触っている。その様子を見せて貰っていた。僕自身も思い付く音を自分に課して練習していた。風、フルート、タルカスのソロ音、流れ星、みたいにノ。想い描いた音を出せるようになることはとにかく嬉しいし、楽しい。ただ自分もプログラマーを目指そうとはこの時点では考えていなかったと思う。確かにシンセを詳しく知りたい、操作が出来る様になりたいなどの欲求はあるにはあったが、シンセがこの先加速度的に進化して、そのためプログラマーニーズが増えるだろうなどの予感はなかった。

それに浦田さんを観ていると、とてもじゃないが自分に務まる仕事じゃないと思わざるを得なかった。なんというか、寡黙、忍耐、孤高ノとにかく観ているだけで気後れしてしまうのだ。そう言えば、随分あとになっての経験だけど、シンセをいじっていてある種トランス状態に陥る時が稀にあった。不思議なことだが毎回同じ感覚で、まず自分の周りの人やモノの気配が全て消え失せ、そして頭の中で誰かと誰かが難しいテーマについて話を始めるのだがノ??。何れにしても、レコーディングの現場で自分がシンセで音を作るなど考えられなかった。

話は変わるが、ポラード社のシンセドラム(シンドラ)は、レコーディングのみならずコンサート、テレビ収録、CMにと、この頃のギョーカイで大活躍だった。たぶんシンドラをリースしていたのはRMCだけで、僕もオペレーションができるようになってからは、他のメンバーに指名がない場合に限りオペレーターとして仕事をした。いわばこれが僕のスタジオデビューである。かなり緊張したがクライアントを不安がらせないよう、なるべく平静を装った。浦田さんのたたずまいを真似しようとも考えたがシンドラは哲学するほどでもなかったのでヤメた。

NHKホールと渋谷公会堂、この二つのホールをシンドラを組み立てたまま歩いて移動したこともあった。シンドラに合わせて出演や演奏時間を調整してもらっていたのだ。シンドラの仕事はインペグ、ディレクター、アレンジャーの人たちから顔を覚えて貰えるし、レコーディングの雰囲気なども早い時期に経験できて随分有意義だったと思う。僕はシンドラ専用のスケジュールを作り、そこにクライアント名、担当者名、アレンジャー名を書き出して覚えるようにした。当時はこれを、『シンドラのリスト』と呼んだ。(ことはナイ)

1978年その2

1978 年〇月〇日渋谷エピキュラスホール。階段を使って三階まで搬入。ハモンドB3、アンペグV4B、CP70、よりによってレオの楽器重い順ベスト3の揃いぶみ。他にもドラムキット、ギターアンプ、キーボード多数、これをふたりで運び上げなければならない。万が一にも、大事な楽器を階段から落とさないよう、楽器と身体をくくりつけるロープを渡される。楽器が墜ちたら人間も道連れ、そういうことらしい。嫌が応でも気合いを入れざるを得ない。渋谷‐屋根裏、新宿‐ロフト、搬入搬出が大変なところは一杯あった。

197〇年中野サンプラザ。昼ビリージョエル、夜スコーピオンズ、この1日2公演のチケットを事前に購入していた。日曜日にあたるその日を、ライヴ浸けにしようとモクロンだわけである。ところがまさかの日曜出勤。新入社員だから異議申し立てなんかできるハズがない。仕事はなんとこの2アーティストへの楽器リースだった。僕はビリーの楽器をセットした後、客席に座ってじっくり鑑賞した。そしてビリーの楽器をバラし、スコーピオンズの楽器をセットしたのち、再び客席に戻って、半分眠りながら聴いた。

ステージサイドでタダ観が出来たのだからダフ屋に売りゃよかったと少し後悔した。ビリーのコンサートは『ストレンジャー』発売直後のプロモーション、という事もあり相当な熱演だった。「これは売れる!」と思ったが本当にブレイクしたので次回からの来日公演はアリーナばかりになってしまった。この規模のホールが合っていそうな気がするが‥。スコーピオンズはマーシャル10スタック使用のハードロック王道仕様。『白いジミヘン』ウィリッヒロートの超絶15分にも及ぶ逆立ギターソロが光った。

覚えなきゃいけないことが沢山ある。まず着手?したのはギョーカイ語のマスターだった。覚える必要のある事柄はそのつどトイレに貼り出したが、最初に貼ったのは[CつぇーDでーEいーFえふGげー]例えばつぇーまんとは1万、イーマンは3万のことだが、なぜAから始まらないのだろうとか、Eはドイツ語だと、えーと発音するんじゃないのか、6以降はどーなるのか、などの疑問があるにしてもまず頭ごなしに覚えてしまう。なにせレオでは頻繁に聞く言葉なのだ。僕は人との会話で間違いの無いように、いつも頭の中で指を折っていた。

次は、あの言語の異種アンビグラム化ともいえるギョーカイ逆さ言葉だ。それにしてもギターはターギ、ベースはスーべなのにドラムはドラム、アンプもアンプである。これには法則がありそれをわきまえた上で使わなくてはならない、僕がこのことを完璧に理解したのはしばらく経ってのことだ。慣れてしまえば「ビータ行くんでデーマンくらいバンスしなきゃ。」などと聞いたら「旅(ツアー仕事)に行くのに二万円前借りしなきゃ。」の意味なんだと、すぐさま理解できるようになる。 〜人間は何にでも慣れられる〜byドストエフスキー

肝心の楽器はどうやって覚えたか。音楽聴くだけ人間の僕が楽器を手にした経験といえばスペリオパイプぐらいだ。従って均等にナンにも知らない。で、思いついたのが、楽器アンプ類を個別に覚えるのではなくジャンルに振り分けてしまう方法だ。説明すると…まずメロトロン〜プログレ、マーシャル〜ハードロック、ヤマハのドラムキット〜フュージョンみたいに、適当にカテゴる。そのうえで誰がどの楽器を使ってナニを鳴らし、そしてどんな音を出しているかをレコードで聴いて音で確認し、ジャケットの写真やクレジットを観て名称を確認、

そして自分で楽器の音を出してみる。僕は1965年以降のロックポップスの系譜を自分なりに持っているので、この方法のおかげでジャンル、ミュージシャン、楽器、音、年代などを包括して覚えることができた。『ギョーカイ語、楽器、あと外タレツアーに行くために必要なのは…アースを落としたり…壊れたものは修理できなきゃだめだ…軽く強電弱電の知識くらいは…電源タップやケーブル類も作れるようにならないと…。』こんなことを考え始めたころシンセサイザーを触るきっかけになる、些細な事があった。

1978年〇月〇日 音響ハウスにミニ ムーグを納品。コスモスファクトリーのレコーディングだった。通常は楽器を置いて引き上げるのだが、その日に限ってチューニングしてくれと頼まれてしまった。どこをどう操作するのか全くわからなかった。何でも覚えようと決めた矢先だし、事務所に帰るなり先輩にチューニングのやり方を教わった。ムーグの他にはアープオデッセイや国内メーカーのシンセサイザーもあったが、ついでに覚えることにした。元々プログレファンだし、シンセサイザーにも興味があったはずである。

1978年

西荻窪のいつものジャン荘で卓を囲んでいるところへ仲間のひとりに電話があった。彼の友人からで、自分の代わりにバイトに行ってくれるヤツ誰かいないか?とのことだ。僕はその日勝負感が全く冴えず、たぶんこのまま負け続けるんだろう、また明日からバイトしなきゃ、みたいなふうに考えていたので、自分が引き受けることに全く躊躇がなかった。内容を聞くと楽器を運ぶ仕事だという。僕は徹夜麻雀のその足で西新宿にあるバイト先へと向かった。あと数ヶ月で24歳になる、1978年春のハナシだ。

バイト先はレオミュージックという会社である。猫の手も借りたいくらいの忙しい時期だと思われ、僕は一日中楽器を運ぶ手伝いでクタクタに疲れてしまった。にもかかわらず、このバイトを一日で辞めるのは惜しい気がしたので、一週間程続けさせてもらえるようお願いした。そして一週間後には正式に社員として雇ってもらっていた。とっとと社員にしてもらったのは、アルバイトだと暇になるとクビになるからで、一週間経っても猫の手とそれほど大差のない僕にはそんな危惧があったんだと思う。それにしても…。

30年前のあの日もし麻雀にツキがあったら、あるいは別のアルバイトを選択していたら…。こうして昔のことを思い返すと、我ながらなかなか場当たり的だ…しみじみ感慨深い。まぁ人間にはさまざまな人生があるということだが。音楽ギョーカイで仕事があればイイなとは、少なからず思っていたし、〜レオで働く〜この事を直感的に決めたのは、きっかけはどうであれ軽率でも盲動でもなかった。

レオミュージックの当時の業務内容は、楽器のリース、販売、修理、調律、そしてPAの5部門。クライアントのほとんどがギョーカイ筋。特にロック、ポップスの外タレコンサートへの楽器リースはほぼ独占していると言って良い。そしてレオにおける、とっておきの花形仕事とは、外タレジャパンツアーにスタッフとして同行することだ。スタッフはツアー前日ともなるとマイケースの中身のチェックに余念がない。テスター、ヒューズ類、真空管、ラジオペンチ、その他細々したものはその人専用のモノである。僕はその様子を羨ましく眺めていた。

そして、何年かやっていればいずれは自分も…、などとも思った。とはいえ当面はスタジオ、ライブハウス、ホールへの楽器搬入搬出である。徹夜麻雀ばかりのナマった身体には慣れるまでが大変だった。覚えなきゃいけない事も沢山ある、これはさらにモンダイだったが。ただ一般的にも云われることだが、未知の世界に飛び込んだ人間は、知識や経験が全くない分コンプレックスなど持ちようもなく案外素直になれるものだ。したがって、乾いたスポンジに水を含ませるように〜云々。果たして自分はどうだったのだろうか?

国内盤の帯は必要?

レコードは大抵輸入盤を買っていたので、いわゆる帯に、なじみがない。レコード店で邦盤を見ても邪魔だなぁくらいにしか思っていなかった。が近年その考えを若干改めている。あの限られた情報でも、案外購入の際のパイロットになっていることと、帯付きだと中古で売るときに、少し高く買い取ってもらえることに気がついたからだが…。ハンマーレーベルの場合、まだそういったメリットに気がつく前でもあったので、帯無しにした。最初にギャングウェイをリリースした時、何故帯を付けないのかと、案の定、ディストリビューターから指摘された。さらに、せめて売る取っ掛かりになる情報なり作品解説なり、ナニか出してくれとも言われた。要するに宣材が必要なのである。考えた挙句、チラシとポストカードを作った。チラシには、鈴木慶一、松尾清憲、鈴木さえ子、楠瀬誠志郎、四氏にお願いして推薦文を書いて頂いた。カードはもらって嬉しくなるモノ、と気合いを入れたが、果たしてCD購入者へ行き渡ったかどうか…。帯を付けない裏事情は、金がかかるから、だが、人の目に触れないチラシやカードに結局金を使う事になるくらいなら 立派な?帯を付けたほうがよかったのか?


一体 どこで配られたのか…。


以外に好評だった、らしい。

GMM

グッド・ミュージック・丸の内(GMM)、ファンドを形成して、一般(アーティストのファンあるいは投資の価値を見い出した人)から資金を募りその金でアーティストのCD等を制作するシステムらしい。出資者に配当があるのは 一年後だから、その間はアーティストへの応援も 一層熱く盛り上がるという訳だ。しっかりとした組織が構築され、なおかつ上手に機能出来れば ある程度は成功するかもしれない。ひとつのビジネスモデルとして注目するがあくまでもビジネスモデル、この方法では作品に対して、全く期待が持てない。が、理由は言わない。

いい音好きな音

マスタリングは言ってしまえば化粧みたいなもの。素顔がよければそれほど必要でもなく、ダメ?ならコテコテに塗りを浴びせ倒す場合もある。レコード会社はマスタリングにかかる費用を制作費ではなく広告宣伝費として計上するがまぁ理屈だろう。ミックスエンジニアはマスタリングであまり触って欲しくない あるいはあんな部分こんな部分を補正して貰おうと思いながらミックスダウンを終える(止める)。演奏 録音 ミックス マスタリングそしてリスナーの再生マシン、それぞれ、自らが持つリファレンスを頼りに音を変貌させていく。演奏、出音がよければ EQやCOMPの使用を憚る事もあるし一方マイクやモニタースピーカー細部に至るまで、こだわりたくもなる。出来ればCDユーザーのオーディオもチェックしたい。なるべくおっきい音で聴いてね!と、指導も忘れない。無理な話しだ。どこで見切り、どう達観するかがクリエイターとしての立ち位置なんだろう。いい音にこだわる姿勢は正しいが、それが好きな音であるか否かが前提として優先されるべきだ。その折折で遭遇する人 楽器 機材モニター、それを必然として楽しみたい。疑い怪しみながら音を重ねるのは悲しい。聞こえる音をひとつひとつ好きな音にプリントする。揺るぎのない姿勢こそ、正当なリファレンスと言えるのではないか。こだわり。はたして私の場合・・・コーヒーのミルクは粉は嫌だしキャンディは喉飴系よりミルキー等の甘アマ系が好ましい。あとは出前か?中華は遠慮したいかも。バファリンは胃がやられるからヤダ。灰皿はデカイのにして下さいね・・・ささやかである。冗談は玉置宏(ベタ、かッ!)、一番重要なのは 靴を履いたままでいられるって事です。スリッパでは気合がはいらん!とです。ヒュー パジャムのエピソードをひとつ紹介しようとして グタグタ長くなってしまった。こだわりの人ヒューのリファレンス・スピーカーはAR製だが残念ながら製造中止の決定を喰らう。失意の中、長期滞在中のロスでのある日。なにげに立ち寄った洋服屋でBGM用に使われていたアノいつものARを、めざとく見つけてしまうヒュー。服を買わすにスピーカーだけ買い取った って話。ミックス料金が一曲80万〜200万円の彼だから 金にいとめは つけなかったに違いない。我が国には ヤマハ10Mを買い占めるエンジニアが 一体何人くらいいるのか?

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