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記憶をたぐる

ムーンライダースは比類なきカルトバンド、このバンドに関わるのは公私で冥利だった。僕は土岐君の成長をフォローすることが、とりもなおさずムーンライダースをサポートすることだとハンマー設立当初から考えていた。ハンマー及びハムは「アニマルインデックス」から「ビザール フォー ユー」までのアルバムでコミットしているが、これをシンセサイザーの変遷という観点で聴くと、土岐君のオペレーションの進歩ぶりも同時に確認できる。むろん慶一さんたちからの指示による部分があるにしろ、聴く人が聴けば容易に判別できるはずだ。

僕はアルバム「ビザール〜」の中の一曲をミックスダウンさせてもらったが、その曲における土岐君のデータや音色の練り上げは、金輪際と言える素晴らしい仕事だった。ミックスをしながらも、音の一つ一つに感心しながら聴き入っていた。期待にたがわぬスーパーなプログラマーになったと感じる傍ら、なんだか誇らしくもあった。皮肉なことにプログラミングを極めたと思われたその直後にハムは解散してしまったが、彼がライダースのみならずプログラマー仕事からもリタイアしてしまったのが、返す返す残念である。

1991年

91年くらいからギャングウェイ(ハンマーレーベル)、クルーエルや仲君のレーベル、シンセプログラマーの仕事、ハムの再建と、なんだか忙しくしていた‥。プログラマーとして参加したチャゲ&飛鳥のSay Yesが250万枚以上売れたらしい。アーティストも円熟、アレンジも素晴らしい、タイアップもある、僕もこれは売れるだろうとは思ったが、それにしても250万枚である。クルーエルも順調でラヴタンに至ってはアルバムが10万枚に届く勢いであると聞く。さて、我がハンマーレーベルのギャングウェイはいったい何枚くらい売れるのだろうか?

飛鳥さんもギャングウェイのファンだとのこと、瀧見のケンチャンや仲君もファン、周りはギャングウェイファンだらけだが‥結果4000〜5000枚であった。人は洋楽インディーとしては売れた部類だと言う。正直、僕の予想もこんなもんだった。しかしながら一方で、予期せぬ嬉しい悲鳴というものをあげる準備もしていた。これは妥当な数字なんだろうか?仮に妥当なものだとして、なにが悪くて売れないのか?そういえばムーンライダースの《7不思議》のひとつが レコードが売れる枚数が何故か少ない というものだったが…。

デイブ ステュワート&バーバラ ガスキン、僕はポップミュージックにおけるシンセサイザーの使い方の好例としてこのユニットを挙げたい。「ビィジー ドゥイン ナッシィン」など、もし僕がどこかの先生だったら教材として使いたいくらいだ。ハムはこのユニットの来日時に、スタッフを二名派遣した。主催サイドに頼まれたのだ。バーバラが極端な嫌煙家で、喫煙者は半径8M以内立ち入り禁止になっており、残念ながら僕はリハーサルを見られなかった。本番は仕事で行けずじまいで、こんなことなら半径9Mのところから見るんだったと後悔した。

この時のPAマンが、自分もレーベルをやっているが協力してやらないかと持ち掛けてきた。細かい話は日本に自分の友人がいるので、その彼が代理をするとも言う。その日本の友人が後日事務所を訪ねてくれたが、九州から来たとのことだった。そして話をするうちお互いの生家(長崎)が歩いて10分ほどの距離だとわかり、奇縁を喜んだ。結局レーベル話しは立ち消えたが、彼とはその後もたまに訪ねたりメールをやりとりしたり交流があった。 今回の帰省で久しぶりに会えると思っていたが、昨年他界されたと知った。〜高原寛さんのご冥福を祈る。

シンセプログラマーの仕事だけでは会社は先行き不安なだけに、なんとか活路を切り開こうとしてきたが、94(たぶん)年力尽きた感の僕は、ハムの経営から離れフリーランスのプログラマーとしてハムと契約した。そしてハムとムーンライダースオフィスが移転したあとのスタジオ兼オフィスには、ハンマーレーベルのみが残ることになった。経営を放棄した(せざるをえない)理由を簡潔に言えば、社内にある、プログラマー業務重視という空気を僕が払拭できなかった、そういうことになる。責任の全うは他の手段があったのかもしれないが‥。

スタジオを死守しようと溜まったものの、さすがに渋谷、しかもスタジオ機器のローンもあるしで、個人では立ち行かなくなり店子を募る事にした。だいたいスタジオでの作業がない限り、僕はオフィスは使わないのだから、スペースはある。まずクルーエルが入り、次にタキミ君の友人の山崎二郎君も加わった。二郎君は音楽誌を作りたいとのことだった。ハムが残していった五つあるデスクをクルーエルと、二郎君、彼の同志青野君、そしてハンマーレーベルで分けた。備品の棚はZESTが在庫置き場として使っていた、いつの間にか…。

二郎君たちの雑誌『バァフ アウト』のプリ創刊号が上がったのはどれくらい経っての事だったか‥。連日連夜の編集作業、手売りに出掛ける時の重そうな様子、そんな姿を見ていたら、おもわず「頑張れよ」の一言も掛けたくなるものだ。しかしながらクルーエルの時もそうだったが、僕なんかが「頑張れよ」などと言わなくても、イイもんは独りでに頑張っちゃうもので、その後のバァフのブレイク振りには、ただ驚嘆するしかない。僕はひょっとしてクルーエルかバァフの飛行機が飛ぶ時代が来るんじゃないか?そんなふうに思いながら眺めていた。

1990年その2

1990年、ハーフトーンがギョーカイ配布用CDを制作することになった。プロデューサーは中島睦氏。往年の洋楽ヒット曲のカバー集である。これには外部向け宣材目的以外に、自社所属のミュージシャンに初々しい感性を喚起させ、尚且つオーバープロデュースに走りがちな風潮をも自ら戒めようという、彼ならではの一網打尽的意図もある。彼の粋狂なのか僕はエンジニアとして起用され、初めて録音とMixを経験することができた。しかも10曲全てがアナログマルチ、面白かった。この経験はその後の僕にとって、随分大きなものになる。

レーベルを立ち上げたのは、ギャングウェイをリリースするため。ここで『ハンマー』を復活させた。会社の今後を模索する一環だったが、あんまり賛同は得られなかった。H.UK挫折の後味の悪さを引きずり、僕も独断で事を進めるようなところもあったから、致し方ない。もっとも周りはシンセサイザープログラマーという稼業にそれほど危機感を持っていなかったのか、さも僕がプログラマー仕事を辞めたいが為に、何にでも手を出そうとしているかのように思われていたフシもある。

ハムの事務所があるマンションの同じフロアに『ZEST』というレコード店があった。社長は若林氏。以前は洋服をやっていたとのことだが、そのスジの音楽と熱帯魚に関してもやたらに詳しい人だ。ネオアコ中心のその店で僕はお得意様だった。店には三人の若い子が交代で立っていて、彼らが僕の好きそうなもの(又は売れ残り)を確保してくれていたのだ。カジ(ヒデキ)君が一番親身に選んでくれていてハズレも少なかった。カンチャン(神田朋樹)はどーでもよさそうで、仲(雅史)君は、たまにはこんなのも聴けばァと、わざとハズしてきた。

ギャングウェイをハンマー(レーベル)からリリースする話をした時、若林さんがライターの瀧見(憲司、以後タキミ)君を紹介してくれた。彼もギャングウェイ好きだとのことで、雑誌に(好意的な)記事を書いてくれると言う。そのかわり近々立ち上げる予定の彼のレーベルには僕が協力する、そういうことになった。そして事務所のスタジオを見せたりしながら会社や自分の仕事を説明したはず?だったが、たぶんナニかの拍子に「出来る事はヤってあげるよ」などと安請け合いしたのだろう、いきなり10数曲MIXしろ、と言われてびっくりした。

クルーエルレコーズのコンピレーションアルバム『ブロー アップ』はフォステクスのハーフinch16上でミックスしたが、テレコを回すたびに音が劣化するので、「なるほど、ドラムスやボーカルはアカイのデジタルに移したほうがいいか?」などと学習しながら作業したことを憶えている。次のミックスはカヒミ カリィのシングルだったが、これにはアカイもシンクロさせた。好みのサウンドなので少しイジッてみたくなりオートハープを足した。あと録音されていた口笛が不安定だったので、ちゃんとした?ヤツを自分で吹いて混ぜてミックスした。

勿論彼らの音楽をどうこうしようと考えたのではなく、良かれと思うことを控え目にやっただけである。駄目なものは却下されるだけ。クルーエルが目指すものはタキミ君が決めることであり、僕は基本的にエンジニア(スタジオのおじさん)に徹していた。ところでこのミックスの最中に事務所のテレビゲームでずっと遊んでいる少年?がいて、一体何者だろうと思っていたが、彼が小山田(圭吾)君だった。僕は彼のこともフリッパーズ・ギターのことも全く知らなかったので単純にカヒミ カリィのオケのセンスに驚いていた。

カヒミカリィの次のシングルで、今度はエル・マロにびっくりした。まったく奇才はどこに居るのかわからない。会田君の現在の活躍は当然といえば当然、一方僕がリスナーとして大ファンであるところの柚木君は今どうしているのだろう(僕が知らないだけなのか?)?僕はcobaのリミックスでカヒミ、エル・マロの二人、exブリッジの清水君、十川(知司)さん、やまちゃん(山岡広司)を一曲の中でコラボったが、自分好みのミュージシャンから出た音を好きなようにミックスする、あれほど幸せで冥利な仕事は滅多にない。

クルーエルのすぐ後に今度はZESTの仲君がレーベルを始めた。トランペット・トランペットというレーベル名が、すぐにエスカレーターに代わった。リリースはクルーエルより頻繁で、作り方も粗かったが、それがイイ方に作用していたように思われた。オモチャ箱のような〜は例えが平凡だが、実際彼の意図したものはそのようなモノだっと思う。シーガル〜、スナップショット、個性も豊富だしやっぱりオモチャ箱でイイんだろう。ポータブルプレーヤーで聴くドーナツ盤を想像させ、なんだか楽しい。

1990年その1

90年前後のプログラマー仕事に使ったものは、シモンズSDX、シモンズラック、プロフェット10、PPG2.3+PRKFKキーボード、エキスパンダー、JP8モジュール、M1、イミュレーター㈽、マイクロウェーブ、リン9000、オスカー、DX7㈼、98+カモンMセット×2、etc.今思えば恥ずかしくなるほどの量である。これを仕事をする毎にスタッフが全部セッティングしてくれるのだ。この頃になるとオリジナルの音をスタジオでサンプリングしたり、音色を一台のシンセで哲学的!に作り込むなんてことも稀になった。在り物ソフトで賄えるのだ。

アレンジャーからの要望もゴージャスな音傾向になっていった。MIDIを使っていくつもの音色を同時発声させるのだ。ベーシックのギターもエフェクトされてステレオ、ドラムスも固めに処理され、しかもデジタルリバーブに塗れている。そこへ我々のシンセがダメオシに襲いかかるわけだ。これを密かに『複合汚染』と呼んだ。【我慢だ】【世の中がこういう音を所望しているのか?】【そうだとしても制作サイドがそれに迎合していいのか?】【プログラマーふぜいとはいえこんな事は考えるぞ】【淘汰されるべきは?】【ひょっとして我々の音か?】

【このままだとシンセプログラマーの仕事はなくなるに違いない】【5年先はどうなる?】【世間ではバブルが崩壊しそうだし‥】【制作費も頭打ち、プログラマーには一層風当たりが強くなる】【ハムには何人の社員がいる?】【ナニか手を打たなきゃ】【ロンドンでの仕事は?】【ハムスタジオの使い途は?】…時代への対応、会社の状態に綻びが生じてきたのである。こんなことをグタグタ考えていたが、以前のように自分ひとりのハナシではないのであって、…難しい。できれば楽しかった事だけ思い出せればいいのだが。

楽器不要、身体ひとつで来いと言われてフリーポートSTへ行った。鷺巣さんがクライズラー&カンパニーの仕事をしている現場だ。鷺巣さんは「僕の恩人五指」に入る人だから、二つ返事で参上した。用件はクライズラー〜のメンバーにロックを教えてやってくれ、というキテレツなものだった。デビューしたばかりの彼らの事は話題にもなっていたので多少は知っていたが、いきなりロックを語れと言われても…。(アカデミックな学府でもロックを教えるべきだ。)事前に言って貰えたらレコードくらい持って行ったのに…、PFMを推薦した。

別件でも、身体ひとつで来いと言われてEMIの3STに行った。M.L(特に木村さん)は「僕の、頭が上がんないギョーカイ人五指」に入るので、言う事を聞かざるを得ない。小沢健二君の現場だった。スタジオには名だたるアナログシンセがセットされており、それを使って音を作れとのこと。こーゆう古いシンセはベテランじゃないとねー、というわけである。実際若手プログラマーがトライしたものの駄目だったそうである。いつの間にか自分もベテランと呼ばれるようになってしまった…一抹の寂しさを感じながらディスコチックな音を作った。

ヤマハのシンセサイザーCS‐80が好きだ。チューニングの問題(機体内部で調整が必要)をクリア出来ればもっと仕事で使いたかった。『UK』の来日時、リハーサルでのエディ ジョブソンのセットを見たが、2台のプロ5よりCS80をメインで考えているセッティングだった。相当重用しているのだろう。CS80の愛用者と言えば、サッド カフェのヴィク エマーソンもそのひとりだ。ヤマハを讃えたその一方、僕はDX7が苦手である。もちろん個性的だとは思うが、僕の場合はあのギギャとかグギャみたいな音が生理的に駄目で…。

発売された途端ほとんどのプログラマーがDXの導入を決めたみたいだが、僕は知らん顔を決めた。ところが世間ではDXのキラッとしたエレピサウンドがすっかり市民権を得てしまうのである。雇われプログラマーとしてはアレンジャーの要請がある以上無視もできなくなってしまった。そんなわけでDX7㈼をそのエレピ対策に使う事にした。かつてボブ ジェームズが広めたダイノマイピアノといい、ベーシックがキラキラし過ぎるとそれにオケが支配されつまらなくなる。その後のシンセダビングが石を抱かされて座っているようなものに感じられた。

1986年

198〇年〇月〇日〜BOXのレコーディングに向けて、スネアの音をいくつかサンプリングするためにエンジニアの飯尾くん、同じく赤ちん(赤川)そして土岐くんと僕の四人で音響ハウスに集まった。BOXの仕事には飯尾くんエンジニア、僕プログラマーで参加するが、今回の趣旨はリンゴのドラムを打ち込みで再現する というものだ。飯尾くんがスネアを叩き、赤ちんがイコライジングする。それを土岐くんがウェーブタームでファイルを作り、僕がPRK FKで読み込みPPG2.3でエディットして使用する。

シモンズSDXの登場前の頃で、当時の我々のマシン中、ドラムサウンドに関しては、PPGはベストだった。イミュレーターより音に奥行きがあるし、好みにもよるがたぶんフェアライトとも遜色がなかったと思う。ワンショット限定ならAMSにサンプリングしてトリガリングする手もあるが 細やかなニュアンスを求められるここでは却下。ちなみにアンディ パートリッジはコルグのDDD‐1とそれを使ってトリガーさせたAMSを併用している。(ザ デュークス 〜で可聴) DDD‐1には独特の音色傾向があり英国風味を感じさせる。

そういえば、飯尾くんと赤ちん、戸田(誠司)くんと僕の四人で三宿の909というプールバーにハマったことがある。ここは明け方5時まで営業していた。ギョーカイに限らず出版系、放送系など夜方の人々が酒を飲んだり、玉を突いたり、ちょっとクールダウンに立ち寄ってみようかみたいな趣きの店だ。和気あいあいと遊ぶためのバカラやブラックジャックなどのカードゲームの他、ルーレットも二台あり、ちゃんとディーラーも数人いる。勿論 賭博ではなく、単なる遊びである。にもかかわらずこの四人は、和気あいあいするつもりは 全然ない。

とにかくなにがなんでも勝つ、勝つまでやる。ユルギがない。勝ってもナンにも貰えないのにである。この事で伺い知れるのは、音楽に対峙するのとギャンブルに興じるのは、彼らにとって同義である、というイデアだ。そして音楽による興奮、そのカタルシスには別の興奮をぶつけるしかないのだ。さすがこの三人はひと味違うと思った。四人集まれば必然的に桜新町のジャン荘アサヒになだれ込むことになる。ジャン歴数十年、あまたの戦歴を誇る僕ではあるが、ただの一度も勝てなかったのは、…口惜しい。

ハーフトーン ミュージック(以後ハーフトーン)は武部聡志氏と中島睦氏を中心として80年代初め(70年後半?)に作られた。二人が社長を務める。設立当初のハーフトーンは両人に加え須永氏、岡本氏のわずか四人だったものが、80年代後半には社員数十人、所属ミュージシャン数十人の大組織になっていた。ハーフトーンにもシンセプログラマーが数名所属していたが、スタッフのやりくりやマネージメントが難しく、少々持て余し気味だとのことで、業務提携の形でハーフトーンのプログラマーをハンマーに移籍させる、こういう次第になった。

武部さんやムッちゃん(中島睦)との付き合いは、僕がプログラマーとして仕事を始めて間もない、81年『本田泰章』のレコーディングに遡る。武部さんもアレンジャーとしての活動を始めたばかりだったので、お互いガンバロー的意識みたいなものもあった。そういうわけで業務提携バナシにはなんの抵抗もなかった。傍若無人にも社名を変えろと要求され、チッと思ったが、彼らの顔をたてて『HAM』(ハム)に変えた。HAMMERからMERを取っただけ、つまり「まー(MER)いいか」だ。ハムのプログラマーとして大竹、飯田、山中の三人が加わった。

事務所の応接室をツブシてスタジオに変えた。一応多目的、おもにプリプロ用にどうか?と考えた。コンソールはサウンドクラフト24、レコーダーはアカイのデジタル12CHとフォステクス16CH(シンクロ可能)、モニタースピーカーはジェネレック30(旧タイプ)、マイクはシュアの57一本、キューboxはなし、マスターレコーダーはソニーのDAT、自慢はTUBE‐TECH七台(HA×1、EQ×2、midEQ×2、COMP×2)。業者に頼んで防音設備も施した。とにかくこれくらいのハコがあれば、誰かがナニかに使うだろうと思ったのだ。買ったレコードもすぐ聴ける。

1985年その3

「英国遊び」ささやかではあるが幸せな時間だった。音楽に関しては60年代ドノバンに始まって、プログレにハマり、そのあとはそれこそ何でも聴いた。(ピストルズあたりで少しくじけそうになった。)僕にとって幸運だったのは、レオの先輩に杉山さんというその道の達人がいて、僕が知らないあるいは聴けなかった廃盤、貴重盤をかなりの数、補って貰えたことだ。杉山さんと下北沢のエジソンに通いつめ、アフィニティやケストレルなどの高額プレミア盤をため息まじりで眺めていたことを憶えている。キーフ制作のジャケットのなんと美しかったこと…。

ジャケ買いやレーベル買いは、そのころからの癖になった。80年代は何故かネオアコ中心になった。エル、4AD、チェリーレッド、クリエイション、サラ、ラフトレード、コンパクトオーガニゼイションetc.。ムサボッタという表現が合うくらいだ。ナニゆえネオアコだったのか?いわゆる反動(仕事、または今まで聴いてきたものからの)のようなものだったかもしれない。軽いものが良かった。そういえばビートルズを真面目に聴いたのもこのころだ。ビートルズの凄さは、録音などに関しての知識がある程度備わってから聴くほうがよくわかった。

ビートルズで好きなアルバム、「サージェントペパーズ〜」と「マジカルミステリーツアー」。これは『50%の予定調和と50%の偶発に対する妥協』の産物だ。偶発とは、度重なるピンポンによる予期出来ない音質の変化(例えばテープ コンプレッション)や編集段階でのやはり意図とは違った結果、そんな意味だ。一般に「イギリス的」或いは「イギリスぽい音」と言われるものがある。音的には中域がせりだし、ウェットでなんだかクグもっている感じ、音楽的にはクレバーさと諧謔精神が求められ、一朝一夕にはモノに出来ない部分なのである。

「アビーロード」前後からは高音域に独特なシャラシャラ感が加えられ、よりポップな方へ向かっていく。デヴィッドボウイの「ジギースターダスト」はこの典型だったが、逆に少々マスキングさせ通好みに仕立てあげたのがエルトンジョンのプロデューサー、ガス ダッジョンである。「グッバイイエロー〜」「キャプテンファンタスティック〜」での彼の仕事は特に秀逸だが、音的なこだわりがスネアの響き線の(周波数の)ハイエンドとパーカッションやアコースティックギターのハイエンドの絶妙な処理に見受けられる。
アンディパートリッジが、何年も経って、思い出したようにガスを起用したのはたぶんその辺りを狙ってのことだと僕は思っている…。この音質感は10CC ELO アランパーソンズ一連の仕事、或いはライラックタイムやドリームアカデミーなどを経て一部ネオアコにまで、継承されている。(ネオアコとフォークロックの違いは、この部分への気配りが有るか無いないかの差もある。)テクノロジーの向上や、派手さ明るさを求められる風潮によって、この「イギリスぽい音」は減少してしまったが、なんとか再起復権を果たして欲しいと思う。
英国らしさの意識はシンセサイザーでの音作りにも反映する。クグもったプロフェットPad、強めにかけられたピアノのコンプ、モデュレーションをギリギリ深く懸けた音、シモンズのノイズ成分ハイエンドとアコースティックギターのハイエンド成分の絡み、あえてショボくして「シャレ」だと言い切る気骨、このようなものが、つまりは「イギリスらしさ」を踏襲している。大切なのはハイエンドシャラシャラ+諧謔1に対して、クグもり1.6の完璧な英国フレーバー黄金比を成立させる、このことに尽きる。

我が国にはこの真性英国趣味の人は案外多い。推定では20000人を下らないと思われるが、残念ながら若い世代にはほとんど分布していない。特に30歳未満の女性は皆無と言って良く、英国らしさを理解するために例えば50歳以上のソノテの男性とお付き合いするとか切磋琢磨して欲しいものだ。ちなみにギョーカイには100人くらい存在している、モノと思われる。上級者ともなると、マッカランの12年モノを舐めながらジェスロ タル『パッション プレイ』を聴いて笑っていられる。読むべき本は、言うまでもないだろうが。…『ストレンジ デイズ』。

1985年その2

細野さんのレコーディングに2日連続で呼ばれた。スタジオはサウンドシティとセディック、シンセをフルセット準備して気合い十分は言うまでもない。両日共13時スタートだったが、両日共、クリックだけの録音で終了した。細野さんはスタジオに入るなり作曲を始めたが、10時間ほど経っても完成しなかったのだ。それでもテンポだけは決定したらしくそれを何故かカセットコピーしていた。坂本さんがトーマス ドルビーとコラボった時は、カーツェルK250を持って行ったがハナからハイハットだけの為だった。〜やっぱり範疇を超えた人たちだ。

フランクフルト・ミュージック・メッセは、毎年二月か三月に5日間開催される。二日目までが業界向け、残り三日間が一般に公開されるヨーロッパ最大の楽器フェアである。僕は85年から7年連続して見に行って来た。ついでに欧州各地にも足を延ばし都合一週間ぐらいの旅行になった。米国にもNAMMショーがあることは知っていたが、どうせ行くならヨーロッパである。「社運を賭ける意気込み、決して物見遊山などではない。」これは満更嘘ではないが、正直に言うと楽しみは他にもあった。人に言えない話しではないが、言うほどの話しでもないので省略する。最初の数年はフェアライト、PPGなど有名メーカーが揃って健在だったこともあり、会場の熱気は凄まじくちょっと感動的ですらあった。メーカーは各ブースごとに様々な趣向を凝らしていたが、とりわけPPGのブースは群を抜いて素晴らしかった。いわゆるホームの強みもあるのか結構広いスペースに陣取っており、それだけでも目立っていた。照明は極力落としてあり、そのためピンポイントのライトが、あのブルーパネルを効果的に浮かび上がらせている、といった趣きである。とにかくシブイ!の一言に尽きる。

カメオ・インタラクティブ(当時はまだナニワ楽器)の村井(清二)さんからPPGの社長ウルフガング パーム氏を紹介された。その風貌と人柄はPPGが醸しだす雰囲気そのもので、僕はムーンライダースとイメージをダブらせていた。そもそもPPGはパーム氏がタンジェリン ドリームの為のシンセサイザー開発を目指してオーガナイズしたもので、その出自もハンマーがムーンライダースにコミットする部分と似ている。後日ハンブルクにあるパーム氏の自宅を訪問した際、開発途上だったHDU(ハードディスクユニット)を見せてもらったが、彼はEL&Pをサンプリング素材にしてHDUの解説をしてくれた。もう感動するしかなく、ムーンライダースにはPPG!こうなるのである。折りしもイタリアのディーラーがPPGから撤退することになって在庫を放出したいとの情報があり、ハンマーはウェーブターム他一式を格安で入手することが出来た。この直後に制作されたムーンライダースの名盤『ドント トラスト オーバー30』でのPPGの活躍は喜ばしい限り、まさにシテヤッタリだった。話しをメッセに戻そう。デジデザインのブースも85〜86年には存在していた。Pro Toolsがプロトタイプで出展されていた。デモンストレーターが「これは映像とのシンクロを主眼においたシステムで、現時点では音質は二の次」みたいなことを言うので、「音が二の次とはナンだ!」と思い、反発した。その時の印象のまま Pro Toolsを無視し続けていたが、20年以上を経た現在の状況をみるにつけ、自分の早計な判断が若干悔やまれるところだ。マーク オブ ユニコーンもパフォーマー バージョン1.01を出しており、これは即売をやっていたので1セット買ってみた。Macintosh512Kに繋げて動かしたが、爆弾マーク(バグ)ばかり出て、随分焦った。

1985年その1

80年代に入ると、スタジオやその関連機器も急激に様かわりする。気がついた時にはSSL4000Eとソニー3324がカップリングされたスタジオばかりになっていた。しかもモニタースピーカーはオーラトーンが10Mから駆逐され、しかもそうすることが当たり前かのように、10Mにはティッシュペーパーが貼り付けてあった。確かボブ クリアマウンテンがそうしてるから、そんな理由だ。あんまりこんなことを言うべきではないが、【僕は3348とGシリーズは嫌いではない。】ところでレコーディングの現場で使われる言葉には、普通の人が聞いたら驚くものがいくつもある。勿論、専門用語などではない。「あたま、キっちゃえ!」「タタいて くれる?」は序の口で「ケツから無理矢理ツッコんじゃえ!」…戦慄する。「ナカに出してみよおかぁ〓」に至っては、何をかいわんやである。あと格言シリーズ、ってのもある。『ぷろごの魂 百まで』良いシンセは永遠だ。『逆も また シンバル』リバースシンバルの使い過ぎ注意。パラドックスだ。『オケつくって 魂入れず』文字どおり。『ボブクリ三年カキ八年』アレンジャー(カキ)になるのはエンジニアになるより難しい。
プログラマー業界内での再編にも、83〜85年に動きがあった。以下敬称略。松武〜ロジック、浦田〜EMU、藤井、梅崎〜TOP、迫田、石川、〜スマイル、菅原、木本〜インテンツォ、梅原〜タイトロープ、中山〜ジィーズ、池田〜ゼロ、etc、さてプログラマー界の二人の重鎮、松武、浦田両氏の僕なりのイメージは、松武(以下M)浦田(以下U)M〜AD U〜SR M〜モノ U〜ステレオ M〜イーミュの箪笥 U〜ムーグの箪笥 M〜打ち込み U〜手弾き M〜テクノ U〜プログレ M〜日本酒 U〜洋酒 と、このようなものになる。

僕は系譜としては浦田直系、中山君もRMCに在籍していた長浜さんに師事していたのだから同系である。あとジュン(遠山)やハカセ(北城)あたりも、浦田さんの仕事を診ながら伸びていった人たちなので、やっぱり浦田系と言ってもいい。しかしこの二人は体系はそうでも、体型は明らかに松武系だ。藤井君やスガチン(菅原)は音的にも松武系と言っていいのではないか?土岐君にしてもそうだが、プロ5でキコココカコココとクリックを出す人たちは、総じて松武系としてククられる。

シンセの仕事が多岐多様化してくると、クライアント(主にインペグ)との間に混乱や軋轢が生じてくる。例えば、料金などは各社まちまちに設定しており、ハンマーの場合もプログラマーの人数が多い分、随分槍玉に上げられたものだ。松武さんの呼びかけで、プログラマー間で統一した防御策を講じようということになった。後のJSPA(日本シンセサイザープログラマー協会)の設立に発展する、第一回目の会合はハンマーの事務所で行われた。メンバーは松武、藤井、中山、(あと誰だっけ?)僕を入れて6〜7名。不在だった浦田さんを加え、この時のメンバーで理事会を形成した。僕はプログラマー駆け出しのころ、松武さんの現場にリンドラムを持って行った事が数回あるが、その時の印象から「松武さんは寡黙で近寄りがたい人」だと思っていた。それだけに会合での松武さんの多弁、雄弁ぶりにはまったく驚かされた。あのクラスの人ともなると、スタジオ内ではモードが切り替わっていたのだろう、すっかり騙された。それにしてもどうにかこうにか30年の僕に比べて、松武さんはより長い年数に渡って、ギョーカイを牽引しているわけで、これは本当に凄い事だと思う。

そのような成り行きでJSPAの理事を仰せつかったわけだったが、『ハンマー枠理事ひとり誰でも良い』と解釈して、数年後にクーニャにその任を引き継いでもらった。(というか、任せた。新理事→シンリジー)欠点というか弱点というか、簡潔に言えば僕は昔から大勢でツルむのが苦手なのである。(体験上、八人が限度だと思っている。)とはいえ松武さんやJSPAにとっては、これが大正解だったわけで、国友は現在のJSPAには欠くことのできない人間だ。僕は2006年、JSPAを退会し、今はMPNに所属しているが勿論シンパは感じている。

新しい事務所

新しい事務所は渋谷宇田川町。ムーンライダースも合流した。組織については上村さんと話し合って株式会社にした。社名は上村さんから「スカートってのは、どうかな?末広がリでイイじゃん。」と提案されたが、僕がゴネた。硬派なイメージが良かったので 「ハンマー」は、うってつけだった。IDもデペッシュモードをモチーフにして、なんて硬派だ!と独りでほくそえんでいたら、今度は上村さんがゴネて 「せめて色はピンクにしてくれ」という。この人は、いったいナンなんだ、と思ったが 大人になっていた僕はしぶしぶ了承したのだった。

双方合意のもと、上村さんと僕で二人社長ということにした。財務は上村、実務は森。ムーンライダースオフィスから土岐(幸男)君が正式に移籍。プログラマーは深沢(順)君を加え三人。スタッフが二人、デスクひとり。ところで、ハンマー(後にハム)はムーンライダースオフィスの子会社だと思われがちで、僕もそのことを場所に応じて匂わすことは確かにあったが、人に言われると、些かムッとする。この微妙かつ複雑な心情は人から理解してもらわなくても良いが、レオからの独立あるいはハンマー立ち上げの経緯を考えると、少なからず見過ごすことの出来ない部分なのだ。せめて兄弟会社と言って欲しかった。仕事のフォーマットは全てレオから持ち込んだ。つまり仕事の受け方から請求書の項目、その書き方に至るまで、レオでやっていた形式をそのまま適合させた。順調だったので、新しいプログラマーにも加わってもらった。小泉、辻の二人だ。設立時に参加した深沢君は上村さんが誘った人だが、キーボードの演奏も出来るし、したがって譜面も問題なし、オペレーションも丁寧で、まさに優等生タイプだと云える。

対して小泉君は全く違うタイプだ。この人は僕がハンマーに誘った。なのにいつの間に知り合ったのか全然憶えていない。「俺のこと、ヒロシって呼んでくださいよ。」なんて言うほど多摩地区のカオリが漂う熱い男で、風貌もシンセよりむしろギターの方が似合う感じであるが、そんなイメージとは裏腹に案外繊細な音作りをする。高校時代は小室哲也氏と一緒にバンド活動もやっていたらしく、その縁でTMN初期にも関わっていたようだ。辻君は、以前にザバタクを手伝っていたという経歴の人。マイク オールドフィールド命 と言って憚らない、ある意味小泉君と同じくらいにアツい人だ。シンセサイザーの造詣も深く、音楽誌にも記事を書いている事を後日知った。土岐君と僕を除く他のプログラマーは社員ではなくハンマー所属の契約プログラマーであり、楽器や楽器車は個人名義のもの、会社はマネージメントとスタッフ派遣をケアする、といった形態だった。したがってプログラマーが増えるとスタッフも増員しなくてはならない。イッキに7〜8名ほど増えたと思う。普通現場に出るにはスタッフとはいえ、ある程度の教育、研修期間が必要だが、僕自身の出自が出自だけに、なんとかなるだろう、という気持ちもあるにはあったが、なによりハンマーにはクーニャ(国友孝純)という心強い男が存在していた。彼がスタッフを指導しつつ、とりまとめてくれていた。クーニャ(国友)は、現在はJSPAの副理事長であり、松武さんの片腕として活躍しているが、かたわらドコかの学校でナニかを教えているらしい。元来人にモノを教える才能があったのだろう。彼も以前はレオで働いていた。たぶん僕より2〜3年遅れての入社だ。大学で電気系の勉強を終え、ベースが弾けるし楽器にも詳しい、明るく人なつっこい性格でもある。

こんなに利点や美徳が備わっているのだから、レオで頭角を表すのも、あっという間だっだ。外タレツアースタッフにも早々と昇格したので、僕には羨ましく映ったものだ。(ビレッジ ピープルのツアーで、マッチョなモーホにイイヨラれた、と聞いた時は少しザマミロと思った)プログラマーを彼に薦めたのがいつだったか憶えていないが、ハンマーを立ち上げた数ヶ月後には参加してくれていたと思う。プログラマーとして独り立ちするのは何年か先になったが、会社の雑務やスタッフの束ね、そのような事を僕が頼りきったことも影響していると思われ、当時は若干気が咎めていた。クーニャには『98+カモンミュージック』の打ち込みを僕の現場でやってもらった。物覚えという点では僕の数倍速いので、新しいものはまずクーニャに任せるようになる。すっかりサボり癖のついた僕はいつの間にか解らない、できない、事だらけになってしまった。まぁ優秀な人が傍にいるのも痛し痒しである。話はガラリと変わるが、このころのスタジオ事情はどうだったか。78年頃、コンソールの主流はクォードエイト、トライデント、MCIなどであり、テレコはもちろんアナログだった。

1984年

198〇年 ビクター青山301ST 松田優作さんは、座っているだけで「絵になる」人だ。僕がスタジオ入りした時も、奥にあるソファに長い手足を持て余し気味に身を委ね、ジッと何かを考えている様子だった。やっぱりため息がでるくらいに男前なのだ。僕は優作さんの隣りに腰かけ、おもむろにMC4を打ち込み始める。アシスタント君に「すみませーん、メンフ下さい。」と、言う。『メンフって、ナンだ?。』と、優作さん。「あっ、譜面のことです。ちなみにギターはターギ、ベースはスーベです。あと 銀座のホステスが、ザギンのテスホス、ってのもあります。」 『…そうか。』 10分くらい経って、 『オイ、メーア食べるか?』僕は優作さんが手に持った飴をイチベツして、「イヤァ、飴はアメでいいんです。」と、言った。 『………。』 このやりとりを観ていた人は、聞いてませんでした振りをして、シカトしていた。 優作さんがこのクダラナさを楽しんでくれた、と今でも信じて疑わない。

優作さんの音楽プロデューサーはエックス(eX)の梅林茂さん。僕は優作さんの仕事以外にも、御自身のソロや映画音楽の制作などで声を掛けて頂いた。硬派なたたずまいからは想像できなかったが、『セイラー』のファンだとのこと。そのセイラーのジョルジュ カヤナスがプロデューサーとして梅林さんのソロアルバムに起用される、と聞いて嬉しかった。一部その方面の人々の間で話題になっていたニッケルオデオンの秘密を解明できるかもしれない、と思ったからだ。ジョルジュは好い人で、ヒントをひとつだけくれた。〜『オデッセイ』〜

シンセプログラマーの仕事は、多くの場合レコード会社ディレクター→アレンジャー→インペグ(コーディネーター)を経てオファーされる。【(1)70年代後半まで。シンセ指定。二時間1セッション。約2万円。(2)1980〜82年。シンセ数台。2〜6時間。約5〜10万円。(3)1982〜92年前後まで。プログラマー指名、シンセおまかせ一式、エフェクター等も持ち込む。5〜20時間。15〜25万円。(4)1993年前後〜。プリプロ有りの仕事も増え、作業時間や請求額も臨機応変。】これにプログラマー人件費が加算される。(人によって違うが、およそ1時間5千〜1万位)

(3)の時期がプログラマー仕事の全盛期だったと云える。どこかの専門学校では養成講座まであった、そんな話も聞かれたがイイコトは長く続かないのである。結局(3)以降に至っては…。 全盛期を経験した途端その後ダメになる 〜『満れば欠くる』月のよう。〜昔の人は素晴らしい表現をする。で、仕事の内容ややり方はどのようなものだったか? この部分は一般的にあまり知られていない気もするが、確かに説明するのも難しいし、理解も得にくいところ。細かい検証もやぶさかではないが、とりあえず一言でいうと、アレンジャーとの関係、これに尽きる。まずはアレンジャーが要求する音を出す。当然の基本だ。(その基本をクリアするのも簡単ではないが。)そして徐々に信頼を得てくると、その要求もざっくばらんなものになってくる。例えば、打ち込みデータなどは、ニュアンス付けや音色など、プログラマー任せになる事もあれば、アレンジなどにも関わる部分に進言したりすることもある。場合によってはシンセサイザーにとどまらず、他のパートへ言及することもある。つまり、サウンドを方向付けする決定権を持つ人(アレンジャー)とプログラマーの信頼関係によって、どのようにも変わる、まさに千差万別である。『リズムはほとんど打ち込み。そして オケを一日で完成させる。』このような仕事を例にとってみると。13時、仕事開始。ドラム、ベースを打ち込み、ガイドのボーカルやコードをのせて、テンポ、他を決定する。17時、ギターなどの生もののダビング。その間、残りのデータを打ち込んだりドラムなどの手直し等もやる。19時、メシ。場合によっては、メシをパスして打ち込み続ける。19時半再開、25時終了。ドラムス ベース パーカッション パッド シンセ音色多数合計約25〜30トラックに録音。

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