1978年その3

RMC はレオMからキーボード、シンセサイザー類を切り離して、スタジオへのリースを強化するために作られた会社、というよりチームだった。事務所は西麻布にあった。リーダーは浦田(恵司=現EMU)さん、他に寺島さん、長浜さん、よのすけさんの四人。それに最年少の僕が加わった。1978〜80年、この頃は松武さん(MAC) 杉原さん(JAN)そしてRMCの面々がシンセサイザーオペレーターとして仕事をしていたと思う。ただ後に確立されたプログラマーの仕事とは少し趣きが違う。オファーも、例えば『ミニムーグ オペレーター付』、この様に受ける。

まず楽器に指定があり、それにシンセが解る人間(オペレーター)が付いていく形だ。シンセサイザーのダビング時間は、二時間一セッションで区切られており、時間内で終わる限りはプログラマー人件費を計上しなかった、と思う。これはあくまでも僕の知る限りだが。具体的に説明すると、『二時間までなら何度でも〓あと延長の場合一時間毎に〇円頂きます』こうなる。

勿論、松武さん浦田さんはスタジオへのリースから離れたところでシンセサイザーを使った活動はしていた(と思われる)ので、我が国二大プログラマーの下地はすでにあったということだ。RMCにはムーグⅢ(タンス)、EMS(穴ポコにピンを差し込むヤツ)、アープ2600などもあったが、実情リースで稼働していた楽器はミニムーグ オデッセイ オーバーハイム2ボイス メロトロンポラード社のシンセドラム(通称シンドラ)あとはソリーナストリングス ホナークラビネットD6 フェンダーローズ(エレクトリック ピアノ)などだ。

楽器車が一台しか無いので、スタジオ入りに遅れないよう、常に先のりで楽器を搬入していた。オペレーターは後からチューニングメーターだけ持ってスタジオに行けばいい、というわけだ。シンセはほとんど1台だけ、エフェクターも持っていかない時代である。このやり方は僕にとってメリットもあればデメリットもあり、良い点は、楽器が重複しない限り午前中にすべて搬入してしまえば、夕方ピックアップに回るまでかなりまとまった時間が持てること。残念だったのは、浦田さんたちの現場での仕事をただの一度も観られなかったことだ。

空き時間には大抵メンバーの誰かがシンセを触っている。その様子を見せて貰っていた。僕自身も思い付く音を自分に課して練習していた。風、フルート、タルカスのソロ音、流れ星、みたいにノ。想い描いた音を出せるようになることはとにかく嬉しいし、楽しい。ただ自分もプログラマーを目指そうとはこの時点では考えていなかったと思う。確かにシンセを詳しく知りたい、操作が出来る様になりたいなどの欲求はあるにはあったが、シンセがこの先加速度的に進化して、そのためプログラマーニーズが増えるだろうなどの予感はなかった。

それに浦田さんを観ていると、とてもじゃないが自分に務まる仕事じゃないと思わざるを得なかった。なんというか、寡黙、忍耐、孤高ノとにかく観ているだけで気後れしてしまうのだ。そう言えば、随分あとになっての経験だけど、シンセをいじっていてある種トランス状態に陥る時が稀にあった。不思議なことだが毎回同じ感覚で、まず自分の周りの人やモノの気配が全て消え失せ、そして頭の中で誰かと誰かが難しいテーマについて話を始めるのだがノ??。何れにしても、レコーディングの現場で自分がシンセで音を作るなど考えられなかった。

話は変わるが、ポラード社のシンセドラム(シンドラ)は、レコーディングのみならずコンサート、テレビ収録、CMにと、この頃のギョーカイで大活躍だった。たぶんシンドラをリースしていたのはRMCだけで、僕もオペレーションができるようになってからは、他のメンバーに指名がない場合に限りオペレーターとして仕事をした。いわばこれが僕のスタジオデビューである。かなり緊張したがクライアントを不安がらせないよう、なるべく平静を装った。浦田さんのたたずまいを真似しようとも考えたがシンドラは哲学するほどでもなかったのでヤメた。

NHKホールと渋谷公会堂、この二つのホールをシンドラを組み立てたまま歩いて移動したこともあった。シンドラに合わせて出演や演奏時間を調整してもらっていたのだ。シンドラの仕事はインペグ、ディレクター、アレンジャーの人たちから顔を覚えて貰えるし、レコーディングの雰囲気なども早い時期に経験できて随分有意義だったと思う。僕はシンドラ専用のスケジュールを作り、そこにクライアント名、担当者名、アレンジャー名を書き出して覚えるようにした。当時はこれを、『シンドラのリスト』と呼んだ。(ことはナイ)

入社後どれくらい経っての頃か、インペグ大手MLの木村さんから、そろそろシンセサイザーも試してやるとの声が掛った。この仕事はよく憶えている。ポリドールSTを何故か勘違いしてフォノグラムSTに行ってしまい、ミニムーグを持って遅れ気味にスタジオ入りした僕は最悪に舞い上がっていた。そして最後まで舞い上がったまま、とうとうミュゼットアコーディオンの音で躓いてしまったのだった。一言『まだまだだな』。木村さんが次の「試し」をしてくれたのは数ヶ月後。この時は一応合格したみたいだったが仕事の内容までは思い出せない。

RMC時代はとにかく楽しかったとしか言いようがない、あっという間の一年だった。僕はいわば『シンセ仮免』の状態でレオに戻ることになる。