森本レオさん

レオOBのひとり、グーフィー森。彼は短期アルバイトとしてレオで働いた。音楽好きなのはわかったがナニ目指してんだかまるで解らない不思議な人だった。その後の活躍を見た時、やっぱり人が及びもしない事を考える人だったんだと得心した。過日、彼にばったり会った時、元レオにいた森だから[ 森 もと レオ] というギャグをアミダした話をした。すると彼は随分真剣な顔をして「自分にもそのギャグ使わしてくれ」と懇願するので許可してあげた。その直後、本物の森本レオさんと音響ハウスのエレベーターに乗り合わせたが、…ガマンした。

ライヴ仕事 1)TBS東京音楽祭。エントリーあるいはゲストで出演するアーティストのため数年間プログラミングした。ノーランズにはプロ5を使ったが、キーボードプレーヤーが音を気に入ってくれ、そのままツアーに持って行った。彼は一番末っ子のコリン(だっけ?)といつもイチャついていた。(別にイイけど)。スイングアウト シスターのプロデューサーと同名だった気がしたが、同一人物であるかは不明。スティービーワンダーの時は勿論プログラミング不要。セッティングだけ手伝った。2)ランディ クロフォード公演ではOBXとプロ5を使った。

会場は青山草月ホールだったと思う。プログラミングが細部まで行き届かず若干悔いが残ってしまったので、なんだか祈るような気持ちで演奏を聴いた。そのためか演奏された曲もストリートライフなど数曲憶えている。シンセの音はともかく、いいライヴだった事は確かだ。3)ピエールポルトのオーケストラにもOBXを持っていった。キーボードプレーヤーが結構なオバサマだったが、やけにジノ バネリィ〜と連呼していた。しっかりコピーしたら喜んでくれて、ハイライトを1カートンプレゼントしてくれた。

4)僕はオーバーハイムの当時の輸入元からリペアに関する講習(応急処置ぐらいのレベルだが)を受け、修理出張にも出向くことがあった。大阪サンケイホールにはジョージ紫さんのOBXを診に行ったが、すぐに「自分には修理不可」がわかったので、1ボイスキャンセルして7ボイスで使ってもらった。アラベスクのOBXもツアー先の福岡でトラブった。すぐ来いと言われ、この時はスペアのOBXを手荷物扱いで一応持って行った。この時も「自分には修理不能」がすぐわかったので、2ボイスキャンセルして6ボイスで使ってもらったが、これは内緒だった。

ライヴつながり、『ユイ』のイベントが後楽園球場であった時の話だ。突然の集中豪雨でコンサートは中止になってしまったが、どれぐらい凄い雨だったかというと、なんと腰の高さまで水位が上昇したのである(本当だ)。当然ステージサイドにスタンバっていた楽器はほとんど水没の有り様、印象的な光景だった。僕はTシャツの重ね着で寒さを凌ぎつつ呆然と水の中で佇んでいた。ふと、ナニゲに目をやった先に、なにやら波間にプカプカ漂いながら水道橋方面へ流されていく黒い箱のようなモノを確認した。

目の錯覚かと思ったが、やっぱりマーシャルのスピーカーキャビネットに間違いはなかった。僕はマーシャルの悲痛な(そして少しディストーション気味の)声を確かに聞いた。(ダズゲデ!)。これは子供だろうがマーシャルだろうが人間として見過ごせない…。楽器の搬入搬出、方法は幾らもある。ちなみに当時の我々は、ギョーカイにおいて『引き上げのレオ』と呼ばれていた。(入りは遅刻するくせにバラシは早えェの意味)。しかしながらクロール泳法でマーシャルを回収した経験を持つ人間が、いったい世界に何人いるだろう。なんだか誇らしい。

80年代初めオーディオにハマった。と言っても高価なアンプを買いあさるとかではなく、如何に金をかけずして音を良くするかを命題にした。ハマったきっかけは『テラーク盤』だった。レコードの帯に 「キミのプレーヤーはこの音を再生できるか!」みたいなコピーが書かれてあったので、おもわずその「1812」を買ってみたのだ。毎回大砲のところで針が飛んでアタマにキタ。針圧を変えるなどでは芸がなさ過ぎるので一番安価なヘッドシェルを変えることにした。それを皮切りにドブ板だのブロックだのゴムだの、プレクリンだの…。

テラークに限らず、ほとんどのメーカーが高音質盤を出していたが、僕のオーディオじゃ通常盤との違いはあまりわからなかった。リファレンスにはグレゴリオ パニアグアの「ラフォリア」を使った。音が判りやすいし音楽も楽しい。結局オーディオは金がかかるので大変、ガマンして諦めた。ただ、得た知識も多い。コードの長さや接点の多さがかなり音に影響することがわかった。金をかけなくてもコードを短くして電源の極性を正しくするだけでも良い。シンセ仕事にはハンダを使用しないビル ローレンスを極力短くして使った。