1984年

198〇年 ビクター青山301ST 松田優作さんは、座っているだけで「絵になる」人だ。僕がスタジオ入りした時も、奥にあるソファに長い手足を持て余し気味に身を委ね、ジッと何かを考えている様子だった。やっぱりため息がでるくらいに男前なのだ。僕は優作さんの隣りに腰かけ、おもむろにMC4を打ち込み始める。アシスタント君に「すみませーん、メンフ下さい。」と、言う。『メンフって、ナンだ?。』と、優作さん。「あっ、譜面のことです。ちなみにギターはターギ、ベースはスーベです。あと 銀座のホステスが、ザギンのテスホス、ってのもあります。」 『…そうか。』 10分くらい経って、 『オイ、メーア食べるか?』僕は優作さんが手に持った飴をイチベツして、「イヤァ、飴はアメでいいんです。」と、言った。 『………。』 このやりとりを観ていた人は、聞いてませんでした振りをして、シカトしていた。 優作さんがこのクダラナさを楽しんでくれた、と今でも信じて疑わない。

優作さんの音楽プロデューサーはエックス(eX)の梅林茂さん。僕は優作さんの仕事以外にも、御自身のソロや映画音楽の制作などで声を掛けて頂いた。硬派なたたずまいからは想像できなかったが、『セイラー』のファンだとのこと。そのセイラーのジョルジュ カヤナスがプロデューサーとして梅林さんのソロアルバムに起用される、と聞いて嬉しかった。一部その方面の人々の間で話題になっていたニッケルオデオンの秘密を解明できるかもしれない、と思ったからだ。ジョルジュは好い人で、ヒントをひとつだけくれた。〜『オデッセイ』〜

シンセプログラマーの仕事は、多くの場合レコード会社ディレクター→アレンジャー→インペグ(コーディネーター)を経てオファーされる。【(1)70年代後半まで。シンセ指定。二時間1セッション。約2万円。(2)1980〜82年。シンセ数台。2〜6時間。約5〜10万円。(3)1982〜92年前後まで。プログラマー指名、シンセおまかせ一式、エフェクター等も持ち込む。5〜20時間。15〜25万円。(4)1993年前後〜。プリプロ有りの仕事も増え、作業時間や請求額も臨機応変。】これにプログラマー人件費が加算される。(人によって違うが、およそ1時間5千〜1万位)

(3)の時期がプログラマー仕事の全盛期だったと云える。どこかの専門学校では養成講座まであった、そんな話も聞かれたがイイコトは長く続かないのである。結局(3)以降に至っては…。 全盛期を経験した途端その後ダメになる 〜『満れば欠くる』月のよう。〜昔の人は素晴らしい表現をする。で、仕事の内容ややり方はどのようなものだったか? この部分は一般的にあまり知られていない気もするが、確かに説明するのも難しいし、理解も得にくいところ。細かい検証もやぶさかではないが、とりあえず一言でいうと、アレンジャーとの関係、これに尽きる。まずはアレンジャーが要求する音を出す。当然の基本だ。(その基本をクリアするのも簡単ではないが。)そして徐々に信頼を得てくると、その要求もざっくばらんなものになってくる。例えば、打ち込みデータなどは、ニュアンス付けや音色など、プログラマー任せになる事もあれば、アレンジなどにも関わる部分に進言したりすることもある。場合によってはシンセサイザーにとどまらず、他のパートへ言及することもある。つまり、サウンドを方向付けする決定権を持つ人(アレンジャー)とプログラマーの信頼関係によって、どのようにも変わる、まさに千差万別である。『リズムはほとんど打ち込み。そして オケを一日で完成させる。』このような仕事を例にとってみると。13時、仕事開始。ドラム、ベースを打ち込み、ガイドのボーカルやコードをのせて、テンポ、他を決定する。17時、ギターなどの生もののダビング。その間、残りのデータを打ち込んだりドラムなどの手直し等もやる。19時、メシ。場合によっては、メシをパスして打ち込み続ける。19時半再開、25時終了。ドラムス ベース パーカッション パッド シンセ音色多数合計約25〜30トラックに録音。

これがアイドル系での基本パターンである。勿論アイドル系でも込み入ったものになると、13時から打ち込み始めても21時位までデータ作りが終わらない事もあるし、とにかく多様である。アーティストものも同様で、セッションの思惑、予算などの内因外因でコロコロ変わる。何れにしても1時間5万円ほど請求されるスタジオでの仕事だから、プログラマーはその事も気にかけて作業を進めなくてはならない。ひとつの音色にハマり過ぎたりすると、スタジオの隅っこにいるディレクターやインペグの人のイタイ視線が飛んでくることになる。

女性アーティスト、なかでもアイドル系の仕事が特に面白かった。アレンジャーにとっても大胆なアレンジが試せるフィールドということもあり、その分楽しかったのだ。このような仕事の場合、音ネタ発想に意識(引用?)したのは、フランス ギャル、マティア バザール、マリ ウィルソン、ウイルマ ゴイク、セント エティエン、モータウンもの、ストロベリー スイッチブレイド、ビョーク、アバ、ペイルセインツ、コクトーツインズ、バングルス、だいたいこの中のものから音作りのヒントを貰い、アレンジャーの要求に絡めていった。

そうは言っても歌詞やボーカルがのっかっていない状態、行き届いていない部分があるはずだ。シンセサイザーのパートでさえそうなのだから、アレンジャー仕事は推して知るべし、日本のアレンジャーは凄い。僕は自分が参加した曲ほとんどについて、どんなアガリになったかの確認をしていない。音については、ぜひ成仏していて欲しい、と願うばかりである。今更だけど…(音が成仏するとは、ひとつひとつの音が違和感なしに収まっている状態、を言う。昔、鈴木慶一さんが ボソッと宣った言葉だ。)ナンマイダブ。

郵便貯金ホールでのコンサートを観て、初めてムーンライダーズを知った。いつだったかは憶えていない。ライダースにリースした楽器の回収のため、早めに行ってステージサイドで観た記憶がある。僕は基本的に洋楽しか聴かないので、日本にこんなバンドがあることなど知るよしもなく、ただただ驚いてしまった。その後しばらく経って、今度はレコーディングの仕事が舞い込んできた。シモンズから始まりリンドラム、イミュレータ、他のシンセサイザー類は岡田さん持ち込みのものがあるし、MC4の打ち込みは土岐(幸男)君が担当していた。

当時ムーンライダースは赤坂タムコSTを根城にしていたが、スタジオの斜め向かいにはジャン荘があった。僕が指名され(呼ばれ)しかも待ち時間が長いワケは、麻雀のメンツとしてキャスティングされていた?フシもあり、そんなわけで待ち10時間、仕事1時間、オーバーでもなんでもなく大体いつもこんな状態だった。それでもレコーディングはライブ以上にソソラれるものがあり、僕は一層このバンドに引き込まれていった。『 アマチュアアカデミー』のレコーディングには音響ハウスが使われたが、このスタジオの近辺にはジャン荘はなかった。

スタジオの中でレコーディングの様子を観ていても良かったが、この時のセッションはどことなく張りつめた緊張感があり、遠慮した。僕は長い待ち時間を7Fロビーで過ごすことになる。ある時ライダースオフィス社長の上村氏(この人も麻雀面子構成員であり、やっぱり音響ハウスでは暇を持て余していた。)と「シンセサイザーの未来」などについて、とりとめもなく語り合ううちに、いつの間にかプログラマーのための会社を作ろう、というところまで話が発展してしまっていた。無論その頃の僕にはレオの中ではなんの不満もなかった、のだが…。

すでに外タレツアーへの野望はなくなっていたし、プログラマー仕事もなんだか順調だ。ただ、レオの通常業務とプログラマー仕事を両方共こなすには、いかにも体力的に辛かった。レオの体制上プログラマー仕事に専念するのは難しかったのだ。独りで考えても埓があかないのでチョーサンに相談したが、この人は予想にたがわず「 思った事をやってみろ」 の人だった。少し寂しい気もしたが、ここは一念発起、チョーサンの最後の後押しもかりて、きっぱり 独立することにした。孔子曰く『30にして立つ』、みたいな1984年の話しだ。