新しい事務所
新しい事務所は渋谷宇田川町。ムーンライダースも合流した。組織については上村さんと話し合って株式会社にした。社名は上村さんから「スカートってのは、どうかな?末広がリでイイじゃん。」と提案されたが、僕がゴネた。硬派なイメージが良かったので 「ハンマー」は、うってつけだった。IDもデペッシュモードをモチーフにして、なんて硬派だ!と独りでほくそえんでいたら、今度は上村さんがゴネて 「せめて色はピンクにしてくれ」という。この人は、いったいナンなんだ、と思ったが 大人になっていた僕はしぶしぶ了承したのだった。
双方合意のもと、上村さんと僕で二人社長ということにした。財務は上村、実務は森。ムーンライダースオフィスから土岐(幸男)君が正式に移籍。プログラマーは深沢(順)君を加え三人。スタッフが二人、デスクひとり。ところで、ハンマー(後にハム)はムーンライダースオフィスの子会社だと思われがちで、僕もそのことを場所に応じて匂わすことは確かにあったが、人に言われると、些かムッとする。この微妙かつ複雑な心情は人から理解してもらわなくても良いが、レオからの独立あるいはハンマー立ち上げの経緯を考えると、少なからず見過ごすことの出来ない部分なのだ。せめて兄弟会社と言って欲しかった。仕事のフォーマットは全てレオから持ち込んだ。つまり仕事の受け方から請求書の項目、その書き方に至るまで、レオでやっていた形式をそのまま適合させた。順調だったので、新しいプログラマーにも加わってもらった。小泉、辻の二人だ。設立時に参加した深沢君は上村さんが誘った人だが、キーボードの演奏も出来るし、したがって譜面も問題なし、オペレーションも丁寧で、まさに優等生タイプだと云える。
対して小泉君は全く違うタイプだ。この人は僕がハンマーに誘った。なのにいつの間に知り合ったのか全然憶えていない。「俺のこと、ヒロシって呼んでくださいよ。」なんて言うほど多摩地区のカオリが漂う熱い男で、風貌もシンセよりむしろギターの方が似合う感じであるが、そんなイメージとは裏腹に案外繊細な音作りをする。高校時代は小室哲也氏と一緒にバンド活動もやっていたらしく、その縁でTMN初期にも関わっていたようだ。辻君は、以前にザバタクを手伝っていたという経歴の人。マイク オールドフィールド命 と言って憚らない、ある意味小泉君と同じくらいにアツい人だ。シンセサイザーの造詣も深く、音楽誌にも記事を書いている事を後日知った。土岐君と僕を除く他のプログラマーは社員ではなくハンマー所属の契約プログラマーであり、楽器や楽器車は個人名義のもの、会社はマネージメントとスタッフ派遣をケアする、といった形態だった。したがってプログラマーが増えるとスタッフも増員しなくてはならない。イッキに7〜8名ほど増えたと思う。普通現場に出るにはスタッフとはいえ、ある程度の教育、研修期間が必要だが、僕自身の出自が出自だけに、なんとかなるだろう、という気持ちもあるにはあったが、なによりハンマーにはクーニャ(国友孝純)という心強い男が存在していた。彼がスタッフを指導しつつ、とりまとめてくれていた。クーニャ(国友)は、現在はJSPAの副理事長であり、松武さんの片腕として活躍しているが、かたわらドコかの学校でナニかを教えているらしい。元来人にモノを教える才能があったのだろう。彼も以前はレオで働いていた。たぶん僕より2〜3年遅れての入社だ。大学で電気系の勉強を終え、ベースが弾けるし楽器にも詳しい、明るく人なつっこい性格でもある。
こんなに利点や美徳が備わっているのだから、レオで頭角を表すのも、あっという間だっだ。外タレツアースタッフにも早々と昇格したので、僕には羨ましく映ったものだ。(ビレッジ ピープルのツアーで、マッチョなモーホにイイヨラれた、と聞いた時は少しザマミロと思った)プログラマーを彼に薦めたのがいつだったか憶えていないが、ハンマーを立ち上げた数ヶ月後には参加してくれていたと思う。プログラマーとして独り立ちするのは何年か先になったが、会社の雑務やスタッフの束ね、そのような事を僕が頼りきったことも影響していると思われ、当時は若干気が咎めていた。クーニャには『98+カモンミュージック』の打ち込みを僕の現場でやってもらった。物覚えという点では僕の数倍速いので、新しいものはまずクーニャに任せるようになる。すっかりサボり癖のついた僕はいつの間にか解らない、できない、事だらけになってしまった。まぁ優秀な人が傍にいるのも痛し痒しである。話はガラリと変わるが、このころのスタジオ事情はどうだったか。78年頃、コンソールの主流はクォードエイト、トライデント、MCIなどであり、テレコはもちろんアナログだった。
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