1991年
91年くらいからギャングウェイ(ハンマーレーベル)、クルーエルや仲君のレーベル、シンセプログラマーの仕事、ハムの再建と、なんだか忙しくしていた‥。プログラマーとして参加したチャゲ&飛鳥のSay Yesが250万枚以上売れたらしい。アーティストも円熟、アレンジも素晴らしい、タイアップもある、僕もこれは売れるだろうとは思ったが、それにしても250万枚である。クルーエルも順調でラヴタンに至ってはアルバムが10万枚に届く勢いであると聞く。さて、我がハンマーレーベルのギャングウェイはいったい何枚くらい売れるのだろうか?
飛鳥さんもギャングウェイのファンだとのこと、瀧見のケンチャンや仲君もファン、周りはギャングウェイファンだらけだが‥結果4000〜5000枚であった。人は洋楽インディーとしては売れた部類だと言う。正直、僕の予想もこんなもんだった。しかしながら一方で、予期せぬ嬉しい悲鳴というものをあげる準備もしていた。これは妥当な数字なんだろうか?仮に妥当なものだとして、なにが悪くて売れないのか?そういえばムーンライダースの《7不思議》のひとつが レコードが売れる枚数が何故か少ない というものだったが…。
デイブ ステュワート&バーバラ ガスキン、僕はポップミュージックにおけるシンセサイザーの使い方の好例としてこのユニットを挙げたい。「ビィジー ドゥイン ナッシィン」など、もし僕がどこかの先生だったら教材として使いたいくらいだ。ハムはこのユニットの来日時に、スタッフを二名派遣した。主催サイドに頼まれたのだ。バーバラが極端な嫌煙家で、喫煙者は半径8M以内立ち入り禁止になっており、残念ながら僕はリハーサルを見られなかった。本番は仕事で行けずじまいで、こんなことなら半径9Mのところから見るんだったと後悔した。
この時のPAマンが、自分もレーベルをやっているが協力してやらないかと持ち掛けてきた。細かい話は日本に自分の友人がいるので、その彼が代理をするとも言う。その日本の友人が後日事務所を訪ねてくれたが、九州から来たとのことだった。そして話をするうちお互いの生家(長崎)が歩いて10分ほどの距離だとわかり、奇縁を喜んだ。結局レーベル話しは立ち消えたが、彼とはその後もたまに訪ねたりメールをやりとりしたり交流があった。 今回の帰省で久しぶりに会えると思っていたが、昨年他界されたと知った。〜高原寛さんのご冥福を祈る。
シンセプログラマーの仕事だけでは会社は先行き不安なだけに、なんとか活路を切り開こうとしてきたが、94(たぶん)年力尽きた感の僕は、ハムの経営から離れフリーランスのプログラマーとしてハムと契約した。そしてハムとムーンライダースオフィスが移転したあとのスタジオ兼オフィスには、ハンマーレーベルのみが残ることになった。経営を放棄した(せざるをえない)理由を簡潔に言えば、社内にある、プログラマー業務重視という空気を僕が払拭できなかった、そういうことになる。責任の全うは他の手段があったのかもしれないが‥。
スタジオを死守しようと溜まったものの、さすがに渋谷、しかもスタジオ機器のローンもあるしで、個人では立ち行かなくなり店子を募る事にした。だいたいスタジオでの作業がない限り、僕はオフィスは使わないのだから、スペースはある。まずクルーエルが入り、次にタキミ君の友人の山崎二郎君も加わった。二郎君は音楽誌を作りたいとのことだった。ハムが残していった五つあるデスクをクルーエルと、二郎君、彼の同志青野君、そしてハンマーレーベルで分けた。備品の棚はZESTが在庫置き場として使っていた、いつの間にか…。
二郎君たちの雑誌『バァフ アウト』のプリ創刊号が上がったのはどれくらい経っての事だったか‥。連日連夜の編集作業、手売りに出掛ける時の重そうな様子、そんな姿を見ていたら、おもわず「頑張れよ」の一言も掛けたくなるものだ。しかしながらクルーエルの時もそうだったが、僕なんかが「頑張れよ」などと言わなくても、イイもんは独りでに頑張っちゃうもので、その後のバァフのブレイク振りには、ただ驚嘆するしかない。僕はひょっとしてクルーエルかバァフの飛行機が飛ぶ時代が来るんじゃないか?そんなふうに思いながら眺めていた。
- moriさんのブログ
- ログインしてコメントを投稿
